子供の頃の記憶は曖昧で断片的だから、ふと思い出したことを書き留めようと思う。
よく「最近のことは忘れても昔のことは覚えているもの」と聞くが、だんだん怪しくなって来た。
抹茶を飲もうとしたら、曽祖母(ひいばあちゃんと呼んでいた)のことが浮かんだ。
それはひいばあちゃんがお茶の先生をしていたからだ。
そして、お茶室もちゃんと造っていた。
私がオギャアと産声をあげたのはお茶室だと聞いている。
(当時は家でお産をしていたんだなぁ)
私にはおばあちゃんが二人いた。
曽祖母と祖母だが、それぞれ「ひいばあちゃん」「若ばあちゃん」と呼んでいた。
母屋に曽祖母、祖父母が住んでいて、庭を通り抜けた離れに私たち家族が住んでいた。
だから、庭を走ってひいばあちゃんのいる座敷に毎日のように通ったものだ。
若ばあちゃんもお茶の先生だったので、お弟子さんたちがお稽古に来た時は多分若ばあちゃんが教えていたのではないかな。
幼稚園の頃の私は、ひいばあちゃんのそばにべったり張り付き、モナカやお饅頭などを頬張っていた。
(だから虫歯が多かったのか)
ひらがなを覚えては、ノートに練習したのを見てもらった。
蜂に刺された時は、医者いらず(アロエ)を塗ってもらった。
小学校低学年の頃には、お寺で催されたお茶会の「お運びさん」の役目を果たした。
綺麗な着物を着てお姉さんたちと一緒に撮った写真があった。
春には近くの公園で一緒にヨモギの若芽を摘んだ。
そして美味しいヨモギ餅をたくさん食べた。
庭に咲いた花を新聞紙に包んで「学校に持って行き」と言ってくれた。
ひいばあちゃんのいるお座敷には冬になると火鉢と炬燵が登場する。
炬燵の中には黒猫の「まる」が丸まっている。
いつも髷を結って姿勢もしゃんとしていた記憶がある。
中学高校になると、学校が忙しくて母屋に遊びに行くことがなくなった。
でも夕方には私の家のお風呂に入りに来るので、たまには顔を合わした。
88歳のお誕生日には市長さんがやって来て一緒に写真を撮っている。
だんだんと背中が丸くなって小さくなっていくひいばあちゃん。
いつの間にか私の方が随分大きくなっている。
大学生になると地元を離れたので、連休や長期の休みに帰った時にはすぐに母屋へ行き、顔を見てホッとしていた。
年を重ねるごとに病気がちになり、肺炎になった時には父がおぶって近所の医院に駆け込んだこともある。
(父もひいおばあちゃんにとても可愛がられていたと聞く)
大学2年の正月に振袖を着て、見てもらったのが最後のふれあいかな。
大学に戻ってしばらくして、朝方下宿の電話が鳴った。
「ひょっとして」と思ったら、曽祖母の訃報だった。
すぐに実家に帰った。
夜明け前になんとなく目が覚めたら、お腹の上にひいばあちゃんの姿が見えたのは最後のお別れに来てくれたのかもしれない。
(今思い出すだけで、涙が出てくる)
本当に断片的な思い出ばかりだけど、私がひいばあちゃんのことを大好きだったことだけは確かだ。